李承晩の年譜 84 :李承晩の年譜1:2005/03/25(金) 20:52:52 ID:N10cic4N
何回かに分けて、以前テキストデータにまとめた「李承晩年譜」をUPするニダ
単に新聞記事の経時列の羅列に留まらず、いろいろな情報が読み取れると思うニダ

毎日新聞社刊『昭和史全記録』より抜粋
《朝鮮半島の戦後》
1945.9.2 マッカーサー連合国最高司令官、指令第一号で、38度線を境に、在鮮日本軍の米ソ各軍への降伏を指令。
1945.9.4 大韓民国政府、重慶で成立(金九主席)
1945.9.6 朝鮮建国準備委員会が朝鮮人民共和国樹立を宣言
(李承晩主席、金日成人民委員)
1945.9.8 米軍、南朝鮮進駐
1945.9.9 米軍、ソウルで38度線以南の日本軍の降伏を受理。
マッカーサー南朝鮮に軍政布告。
1945.9.19 米軍政庁、ソウルに設置。
1945.10.2 朝鮮共和国人民委員会結成(李承晩主席)
1945.10.10 米軍政長官、朝鮮人民共和国否認を声明。
1945.10.14 平壌で金日成帰国歓迎市民集会。
1945.10.16 ソ連、北朝鮮全土の行政権を北朝鮮人民に移管。李承晩、米国から帰国。
1945.11.11 朝鮮建国準備委の後身、建国同盟改組され朝鮮人民党結成(呂運亨委員長)
1945.11.19 北朝鮮五道行政局発足。




85 :李承晩の年譜2:2005/03/25(金) 21:01:28 ID:N10cic4N
《南北朝鮮固定化》
1946.1.16 ソウルで米ソ会談。
1946.2.6 米ソ共同委ソウルに設置。
1946.2.8 北朝鮮に臨時人民委員会成立(金日成主席)。土地改革法発布(百万町歩没収)。
1946.2.14 米軍政下で軍政諮問機関の大韓民国代表民主議院開設(李承晩議長)
1946.3.20 第一回米ソ共同委。
1946.5.6 無期休会。




86 :李承晩の年譜3:2005/03/25(金) 21:06:59 ID:N10cic4N
《南北朝鮮に独立国》
1948.1.9 北朝鮮、国連臨時朝鮮委の38度線以北立ち入り拒否。
1948.2.7 南朝鮮労働党傘下労働者、単独選挙反対のゼネスト。学生、農民ら二百万が反対行動。検挙、死傷各数万人。
1948.2.8 北朝鮮、人民軍創設。
1948.2.26 国連朝鮮委、米の南朝鮮単独選挙実施案可決。
1948.3.8 南の独立党党首金九、北に南北会談要請。
1948.3.25 北、金九提案を受諾。
1948.3.29 韓民党除く南の全政党、会談支持。
1948.4.20 平壌で南北会談(〜4.28、南北政党、団体代表545人参加)
1948.4.30 米軍非難・南単独選挙反対・米ソ軍即時撤退・統一政府樹立要求を発表。
1948.4.29 北朝鮮人民会議、朝鮮民主主義人民共和国憲法草案採択。
1948.5.10 国連朝鮮委監視・米軍戦闘準備態勢下で南朝鮮制憲議員単独選挙施行(南北商協派不参加。韓民党第一党)。
1948.5.14 北、南への送電停止。
1948.7.13 大韓民国憲法公布。
1948.8.13 大韓民国樹立宣布式(李承晩大統領)。
1948.8.25 北朝鮮最高人民会議代議員選挙。
1948.9.9 朝鮮民主主義人民共和国樹立(金日成首相)
1948.12.12 国連総会、韓国政府を朝鮮における唯一の合法政府と承認(決議一九五のIII)
1948.12.26 ソ連、北朝鮮から撤退完了。



87 :李承晩の年譜4:2005/03/25(金) 21:13:42 ID:N10cic4N
《朝鮮戦争1》
1950.2.16 韓国大統領李承晩来日。
1950.2.17 マッカーサー元帥と反共策について会談。
1950.2.18 李承晩帰国。
1950.5.30 韓国総選挙で与党大韓民党敗北。
1950.6.19 北朝鮮最高人民会議、全朝鮮立法機関設置含む統一案採択。
1950.6.25 午前四時 38度線で戦闘勃発。→北朝鮮、韓国に宣戦布告、38度線を十一箇所で越境、全線にわたって進撃を開始。
1950.6.26 国連安保理、ソ連欠席のまま北朝鮮の武力攻撃を侵略と断定、即時中止・撤退を要請する米案採択。
1950.6.27 トルーマン、米海空軍に韓国軍援助の出撃命令。安保理で国連加盟国援助を求める米案採択。
1950.6.28 京城(ソウル)陥落、北朝鮮軍水原に迫る。
1950.6.29 米海軍は北朝鮮軍艦艇及び韓国沿岸数カ所の北朝鮮陣地を艦砲射撃。
1950.6.30 トルーマン米大統領、地上部隊に韓国出動命令。
1950.7.7 北朝鮮軍、寧越、堤川、安城を占領した――と平壌放送。
米国、徴兵法を発動、兵力を三十万増強することになる。安保理、米の国連軍指揮決定。
1950.7.8 米軍ついに大田飛行場を放棄す。
1950.7.19 トルーマン米大統領、議会に特別教書を送り、緊急軍備費に百億ドルと兵力定員の制限撤廃を勧告、さらにラジオ、テレビジョンを通じて全国民に援韓措置に対する協力方を要請す。
1950.7.24 北朝鮮軍、大田南方百五十キロの光州を占領す。
1950.8.18 韓国政府、釜山へ臨時に遷都。




88 :李承晩の年譜5:2005/03/25(金) 21:17:21 ID:N10cic4N
《朝鮮戦争2》
1950.8.20 韓国海兵隊、馬山西南の長坪に敵前上陸。
1950.9.15 マッカーサー元帥陣頭指揮の下に、国連軍仁川、群山、浦項、盆徳に上陸、金浦飛行場をも占領して、京城に向け進撃す。
1950.9.16 マッカーサー元帥、北朝鮮軍に降伏を勧告す。
1950.9.29 京城で国連軍の勝利記念行進、国会議事堂で韓国の首都返還式典を挙行す。マッカーサー元帥も参列、李大統領に対し、「今や一般行政の責任は閣下とその政府に委ねる」旨の声明発表。
1950.9.29 米軍軍事顧問団、韓国軍に「38度線まで進撃し、同線上で停止すべし」と命令、韓国軍第三師団の先頭部隊、すでに38度線上其士門里の西方4キロに到着す。
1950.10.1 韓国軍38度線を突破、国連軍総司令官マッカーサー元帥、北朝鮮軍崔○健総司令官に即時降伏を勧告。
○=金へんに庸
1950.10.3 北朝鮮拒否。韓国軍38度線越え、北進。
1950.10.8 前日の国連総会、朝鮮全土仮占有可決に基づき国連軍北進。
1950.10.10 中国外交部、国連軍38度線突破に、軍事介入辞さずと抗議。
1950.10.15 トルーマン、マッカーサー、ウェーク島で初会談。マ元帥は中国軍参戦はまずないし、仮にあっても大したことはできまいと、楽観。
1950.10.21 北朝鮮政府、平壌より新義州に移転、また金日成首相平壌をすでに脱出と――とUP報道。
1950.10.25 中国人民義勇軍、鴨緑江をこえて朝鮮戦線に出動。
1950.11.2 国連軍、清川江南岸に後退。
1950.11.6 マッカーサー元帥、中国軍の無通告朝鮮介入・北朝鮮軍援助に対し「史上未だ例を見ざる国際法無視の不法攻撃なり」との声明書を発表す。
1950.11.25 中国・北朝鮮軍反撃開始。
1950.11.30 トルーマン、朝鮮に原爆使用を考慮と言明。
1950.12.2 中国軍五十万朝鮮動乱に介入「いまや国連軍との間に宣戦布告なき戦争状態に在り」――とマッカーサー元帥声明。



89 :李承晩の年譜6:2005/03/25(金) 21:21:06 ID:N10cic4N
《朝鮮戦争3》
1950.12.4 英アトリー首相訪米し、トルーマンに原爆使用反対を表明。
1950.12.14 国連総会で朝鮮戦争停戦決議案採択(AA十三カ国提出)、停戦三人委員会設置。
1950.12.16 トルーマン、国家非常事態宣言発令。
1950.12.26 中国軍、38度線を突破、京城へ三十八キロの地点に迫る。
1951.1.1 北朝鮮・中国軍、38度線越え南下。
1951.1.4 国連軍、京城を撤退。
1951.1.9 中国軍と北朝鮮軍、37度線付近に殺到。
1951.2.12 韓国軍、朝鮮東海岸でいったん38度線を突破したが、敵の圧迫を受け、再び南方へ撤退。
1951.3.7 北・中国軍京城奪回。
1951.3.19 韓国の旧首都京城、人口わずか四、五万、四回にわたる血の争奪戦を経て、今や全くの廃虚。
1951.3.24 マ司令官、中国本土爆撃をト大統領に要請。
1951.4.11 マ司令官罷免、後任にリッジウェイ中将。
1951.4.16 マ元帥離日。
1951.6.26 英高官筋は国連軍は目下朝鮮38度線に陣地を構築中で停戦協定が成立したらそこに撤退することになろうと言明した。
1951.7.1 北京放送は共産軍が休戦交渉を受諾し十日〜十五日の間に開城で会見を希望している旨発表。
1951.7.2 朝鮮の戦闘は事実上停止。
1951.7.10 休戦会談第一日、政治問題の討議拒否を国連軍から通告。
1951.9.1 朝鮮中、東部の戦闘激化、会談開始以来最も大規模な戦闘という。
1951.9.15 韓国政府は昨年六月以来戦乱十五カ月の戦災状況を死者100万避難民550万と発表。
1951.10.25 休戦会談再開、国連軍代表は現戦線沿い幅四キロの「非武装地帯」設置を提案。
1951.12.16 朝鮮戦乱は死傷既に500万人を超え、歴史史上最悪の戦争の様相を呈している。



90 :李承晩の年譜7:2005/03/25(金) 21:25:06 ID:N10cic4N
《李承晩ライン》
1952.1.19 韓国の李承晩大統領は、東は島根県竹島を含み、西は黄海中央、南はマッカーサー・ラインよりさらに日本寄りの水域に「李承晩ライン」の設置を宣言した。
1952.5.26 韓国政府は責任内閣制への改憲を阻止するため、非常戒厳令を宣布、国会を包囲し野党議員一四七名を憲兵司令部に連行。
1952.7.4 議会で抜粋憲法通過、李大統領再選確保のため大統領直選制採用。
1952.8.7 李承晩大統領再選。
1953.2.13 第一大邦丸船員、韓国官憲に射殺さる。右事件につき外務省は真相調査方を韓国代表部に申し入れた。
1953.2.25 李大統領「韓国水域への出漁は敵対行動と見る」と声明。
1960.3.15 韓国大統領選挙実施。馬山の学生・市民、不正投票に抗議して市署襲撃。
1960.3.16 李承晩当選。
1960.6.5 許政韓国大統領代理は「韓国は李ラインを侵犯する日本船の捕獲を続ける」と言明。
1960.6.23 李ライン海域で操業していた長崎県の漁船が韓国警備艇に捕獲。
1960.6.30 李ライン海域の済州島付近で操業中の二漁船が捕まる。



91 :李承晩の年譜8:2005/03/25(金) 21:28:52 ID:N10cic4N
《四月革命》
1960.4.18 ソウルの高麗大学生、国会前で李大統領退陣要求のデモ。
1960.4.19 韓国で反政府デモが京城市内はじめ南部の諸都市に広がり、死者七十人以上が出る流血事件に。京城他四都市に戒厳令公布。
1960.4.26 五十万人以上のデモが京城をおさえ、軍隊を大統領官邸まで押し返す勢いの中、李承晩韓国大統領はついに国会に辞表を提出。許政首席国務長官権限代行。
1960.4.28 韓国で先に副大統領に当選した李起鵬一家が自殺。李承晩氏の養子である李康石少尉が実父母と実弟を射殺してから自殺を遂げたものである。
1960.5.1 韓国過渡内閣、三・一五選挙の無効確認。
1960.5.28 李承晩ハワイに亡命。


92 :マンセー名無しさん :2005/03/25(金) 21:44:35 ID:N10cic4N
年譜のUPはこれで終りです。

気付いた点をいくつか。

●李承晩は、李承晩ラインはマッカーサーライン(米国公認の日韓境界線)に基づくものだと強弁していた記憶があるのですが、竹島を含むなど違法性は、当時から指摘されていたこと。
●李承晩自身は、李承晩ラインという花火を打ち上げたものの、既にその時点で違法選挙の責任を問う声が韓国世論に高まっていて、日本人漁船・船員の拿捕、拉致などは李承晩自身ではなく、韓国政府そのものが行っていること。

 日本は当時、防衛力再建の途上にあったがゆえに、韓国への強権発動を回避したものと思われますが、この時に一罰百戒となるような断固たる報復措置に出ていれば現在まで禍根を残さずに済んだかもしれません。